2014年4月28日月曜日

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』2011

「かっこいいなあ」というのが最初の感想だった。

現代教育学の行き詰まりは広田先生らによって至る所で語られている(気がする)が、そんな中で「よい」教育とはなにか、という本質的な難問に切り込んでいくのは本当にかっこいい。

それを解き明かすのは、実に難しいからである。

本書を読んでいて、共感できる部分が多かった。7割ぐらいは苫野先生の言っていることに共感する。
例えばコミュニタリアニズムやリバタリアニズムを対立的な構図としてではなく、その上位に一つメタ的な原理を置くことで相補的な理論実践として捉える、といった発想は筆者が言うように「当たり前」だと感じていた。
(特に僕は対して勉強していないので、政治哲学なんぞをやっておられる方々はそんなことは当然すぎるのでスルーしてたものとばかり思っていた。)

しかし、一方でどうしても違和感を拭えない部分が2つ、正確には1つ残った。
それは、筆者が教育の本質を「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」としている、まさしく根本の部分である。
具体的には3章の部分にあたる。

1つ目の違和感について。
筆者はこの結論に至る過程で、現象学的なアプローチを用いている。
現象学は、絶対的な事実ではなく、個人に訪れる実感こそ、唯一確信に値すると考える。
(りんごが赤い、というのは事実かどうか確かめられない。しかし、私が「あのりんごは赤い」と感じる実感は疑い得ない)

だからこそ、筆者が議論の出発点としているのは絶対の人間観や道徳観などではなく、個人の欲望からである。欲望は、個々人が自らに問うことでその妥当性を検証できるからだという。
そして、この欲望の中で最も本質的なものは「自由」への欲望である、と筆者は言う。

しかし、本当にそうなのだろうか?

最も本質的な欲望が自由である、という論理は、例えば「高価なクルマが欲しい」「沢山お金が欲しい」といった欲望それ自体が、現状への不満(不自由)に規定されているからこそ、常に欲望というものが自由への志向性を持つ、というように説明されている。
だが、ここで欲望を底版として据えたのは、現象学的アプローチを採用したからこそだ。

「最も本質的な欲望が自由である」という実感が全ての人に訪れるなんてことはまず無いだろう。
そしてそのように述べる因果関係は決して現象学的ではないように思われる。
「君の『草になりたい』という欲望は、『自由になりたい』ってことなんだよ」と諭しでもすれば、そのような実感に至ることはあるかもしれないが、それを認めてしまったら本書で述べている大半のことが無意味になってしまうだろう。

2つ目の違和感について。

そもそも自由について、筆者はまずこう述べている。

私たちは、私たちの欲望それ自体において規定されている(制限されている)。しかしそれでもなお、この諸規定性の内にあって、自らの意志において選択・決定の可能性が開かれていると感じられた時、その時に私たちは、まさに<自由>の感度を得ることができるのだ、と。「我欲す」と「我成しうる」の一致の実感、これこそが、私たちが<自由>という時のその本質なのである。(p114-115)
また、自由の相互承認のために、筆者(というよりヘーゲル)は他者からの承認が必要であるという。
世界各地において、歴史上、奴隷は必ず反乱を起こした。十八~十九世紀ヨーロッパにおいて、自由を抑圧された人々は革命を起こした。前世紀、アメリカの黒人たちは公民権運動を起こし、自由を制限されていた女性たちは女性解放運動を起こした。そして今もなお、私たちは世界各地で起こる革命を目撃し続けている。自らの<自由>を他者に認めさせることができない限り、私たちは<自由>を感じることができないのだ。(p120)
 端的に言うと、自由であると感じられるためには、自らを規定する欲望に自覚的でありつつ、そこに自由な意思決定の可能性を見出すことが必要であり、同時にその自由を他者に認めさせる必要がある、ということだ。
ここに違和感がある。

そもそも自らを規定する欲望に気づく、というのはどういうことか。
この文言を見てすぐに思いつくのは内省のプロセスだ。
自分を縛り付ける固定観念をメタ認知することで、そこから「自由」になるための方法が内省である。
そうした内省によって感じられるであろう自由は、他者からの承認を受ける必要があるのだろうか。

V.E.フランクルは、人間の本質的な価値として「態度価値」をあげている。
態度価値とは、人間が何も創造できず、体験できない状況であったとしても、自分の力ではどうにもできない運命に対して、どのような態度をとるか、という点で価値を生み出すことができる、という思想である。
そしてフランクルは、まさに態度価値を発揮する局面において人は自由を感じるのだという。
逃れられない、変えようもない運命を前にしてなお、人はどんな態度をとるか、という選択の自由を持つ。それこそが究極の自由であり、人が自由であるという証左なのである。

このフランクルの考え方においては、自由というものは他者からの承認は必要ないように思える。
フランクルの考え方が全て正しいと主張するわけではない。
(僕自身が考える自由は、クリシュナムルティの言う自由に近いと思っているが、要は究極のメタ認知である。)

どのみち思うのは、先の引用の後者で述べている自由と、前者で述べている自由は少し違うのではないか、ということだ。

前者で述べている自由は、人間存在を俯瞰的にとらえている点で確かにその本質に通ずる部分があると思う。しかし、後者でいう自由は、あくまで政治的、経済的な権利といった皮相的なレベルでの自由にとどまっているように思われる。


おそらく、他者からの承認を必要とする次元の自由もあるのだろう。
しかし、そこで終わりではない。
自己を承認し、他者を承認し、他者から承認されることが自由と感じられるための成立条件だと筆者は述べている。
ここに発達的な視座が欠けている。
自己を承認できる段階、他者を承認できる段階、他者から承認されたと感じる段階、それぞれの関係性を明らかにしなくてはならない。そこに通底している志向性こそが、きっと本当の原理につながっているのではないか。

自由になれたら、そこで終わりなのだろうか?
自由とは一度実感したらずっと自由なのだろうか?
自由になった人たちの欲望は何なのだろうか?
自由の相互承認がされ、各自の自由が実現した社会はどんな社会なのだろうか?
他者の自由を承認する、というのは、無関心と何が違うのだろうか?
自由はそもそも実現できるものなのだろうか?


教育学における規範論という極めてカオスな分野に一石を投じた苫野先生の著書。
読後、全くすっきりしない感覚を味わい、長い時間考えてしまった。
自らの教育観を鍛えあげる上で、ぜひともおすすめしたい一冊になりそうだ。

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